建立: | 昭和57(1982)年9月 | |
場所: | マレーシアサバ州ラブアン市 | |
設計: | 菊竹清訓 |
先の大戦においてマレーシア、ボルネオ地域および周辺海域において戦没された約12,000名の人々慰霊碑として、マレーシア政府及びサバ州政府の協力を得て建立された。
並行して建設された「ラブアン平和公園」の敷地内にあり、両者が一体となり慰霊公園になっている。
半円形のアーチ状に造られた慰霊碑の裏側は、現地住民の方々に野外ステージとして利用されている。
碑文には「さきの大戦においてボルネオ地域及びその周辺海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」と刻まれている。 団体の慰霊碑、慰霊塔が数多く建てられている。
建立: | 昭和59(1984)年3月 | |
場所: | マーシャル諸島共和国 マジュロ島 |
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設計: | 菊竹清訓 |
「東太平洋戦没者の碑」は、昭和49年に建立した「中部太平洋戦没者の碑」がマリアナ諸島トラック諸島等の中部太平洋を対象地域としていたことから、これとは別に太平洋の東のマーシャル諸島及びギルバート諸島とその周辺海域において戦没したすべての方々のためにマーシャル諸島共和国政府の協力により建立された。
慰霊碑はマジュロ島中央の海岸沿いに位置し、木々に囲まれた静かな環境の中にあり、周囲は「マジュロ平和公園」と称される公園として整備されている。
碑の中心軸は日本の方角を向いており、日本の方向(海側)に円形の広場、後方(道路側)にバンク、駐車場及び国旗掲揚塔等が設けられている。
碑文は「さきの大戦において東太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」と刻まれている。
建立: | 昭和46(1971)年3月 | |
場所: | 小笠原諸島・硫黄島天 | |
設計: | 工学博士 谷口吉郎 |
東京とグアム島のほぼ中間、都心から南へ約1,250キロの硫黄島で、昭和20年3月、戦死・玉砕した21,900人の将兵を追悼する慰霊碑。
石碑は納骨箱をかたどったもので、その台座底部には遺品の飯ごう、水筒などをステンレス製ケースに入れ、地中に収められている。
また、石碑上部を覆う長方形の上屋には天窓が設けられているが、
これは、暗い地下壕の中で日光にあこがれ、飲料水として天水を求めた兵士の心境を暗示したものとされる。
碑には、「さきの大戦において硫黄島で戦没した2万余の将兵をしのび、その霊を慰めるため国民の追悼の思いをこめて、この碑を建立する」と刻まれている。
国内では、東京都八王子市の高尾山薬王院に「硫黄島戦没者慰霊碑」が建てられ、副碑の「永代供養」の文字は、厚生大臣当時の小泉首相が揮毫した。
建立: | 昭和49(1974)年3月 | |
場所: | マリアナ諸島サイパン島マッピ | |
設計: | 工学博士 谷口吉郎 |
わが国と米国自治領北マリアナ諸島政府が合同で建てた。
サイパン、テニアン、グアムなどで命を落とした兵士や民間人を国籍を問わずに追悼する慰霊碑である。納骨箱をかたどった石碑の台座の下には、飯ごうなどの遺品をステンレス製の箱に入れ、収められている。
碑には、「さきの大戦において中部太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立」と刻まれてる。なお、石碑後方の屏風形の後壁と敷地内の造園は、(社)南太平洋友好協会の寄付により整備された。
サイパン島は敗戦までの30年間、日本が統治しており、大戦当時は沖縄県から約2万人が移住していた。戦争犠牲者は、旧日本軍43,000人、民間人12,000人とされ、「もう一つの沖縄戦」といわれている。