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■靖国神社(やすくにじんじゃ)

2010年11月11日

常識としての日本語

明治維新というわが国が幕藩体制から近代国家体制へ生まれかわろうとするときに、一命を捧げた人たちの霊を慰めようと明治2(1869)年6月、明治天皇が「東京招魂社」として現在地に創立されたのが起源で、12(1879)年に「靖国神社」と改称されました。
先の大戦までに戦場で戦没された軍人・軍属だけでなく、文官、民間の人たちも祀られています。
たとえば、
沖縄で散った「ひめゆり」、「白梅」など7女学校部隊の女生徒、沖縄から鹿児島へ疎開中、敵潜水艦によって撃沈された「対馬丸」の児童たち、また、大東亜戦争終結直後の20年8月20日、ソ連軍の不法侵攻を最後まで内地に通報し続けて自決した樺太(サハリン)真岡の女子電話交換手、民間防衛組織の責任者として空襲下に爆死された人、学徒動員中に軍需工場などで爆死した学徒らも、等しく祀られています。
現職首相による8月15日の靖国神社参拝は、
昭和50(1975)年の三木武夫首相が初めてでしたが、60(1985)年には中曽根康弘首相が参拝しました。神社の春季、秋季例大祭には、20(1945)年11月の幣原喜重郎首相、26(1951)年10月の吉田茂首相など歴代の首相が参拝しています。
大東亜戦争後の歴代首相27人のうち、在職中に5回以上参拝した首相は、吉田茂(5回)、池田勇人(5回)、佐藤栄作(11回)、田中角栄(5回)、鈴木善幸(9回)、中曽根康弘(10回)で、小泉首相は、毎年一度の参拝をしています。

■千鳥ヶ淵戦没者墓苑(ちどりがふちせんぼつしゃぼえん)

2010年11月11日

常識としての日本語

先の大戦で戦没した方々(昭和12年7月以降)の納骨所で、政府により34(1959)年3月、建立されました。
政府の遺骨収集団などが奉還した遺骨のうち、氏名が判明しない方、遺族がわからない方などが納められています。遺骨の大部分は軍人・軍属ですが、同じ戦場にあって犠牲となった一般邦人も含まれています。
政府は、講和条約発効後の昭和28(1953)年以来、毎年、遺族、戦友らの協力を得て、先の大戦の戦場に遺骨収集団を派遣しています。
また、戦後、部隊などが帰還するにあたり奉還した遺骨もあります。
墓苑では毎年5月、政府主催の拝礼式が挙行され、その際、前年度に奉還された遺骨の納骨式が行われます。
墓苑の中心に六角形の納骨堂があり、中央に主要戦場の石を粉砕して作った「陶棺」を安置、中には天皇陛下より下賜された金銅製の「お骨壺」が納められています。
遺骨の一部はお骨壺に納め、大部は地下室を設けて本土周辺、満州(現在の中国東北部)、中国、フィリピン、東南アジア、太平洋・ソ連の6つの戦域別に納骨されています。
墓苑の管理は環境庁ですが、戦没者の慰霊奉賛などは財団法人 千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会が行っています。

■8月15日と6月23日

2010年11月11日

常識としての日本語

昭和20(1945)年8月15日、長かった大戦が終わりました。
政府は57(1982)年4月13日、この日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることを、閣議で決定しました。
27(1952)年5月2日、初めての政府主催の「全国戦没者追悼式」が東京・新宿御苑で挙行されましたが、38(1963)年からは毎年、8月15日に行われています。
全国戦没者追悼式には天皇、皇后両陛下がご臨席になり、全国民とともに大戦で倒れた約310万柱のみたまに黙祷を捧げられます。

また、本土防衛の最後の防波堤となった沖縄では、20年6月23日に日本軍の組織的戦闘が終わりました。
沖縄では条例で6月23日を「慰霊の日」と定め、平和祈願慰霊大行進、沖縄全戦没者追悼式などが行われ、県内各地の慰霊塔には肉親の冥福を祈る人が絶えません。

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