本会が厚生労働省から委託を受け、OBONソサエティと連携し実施している「戦没者等の遺留品返還に伴う調査」事業で、日章旗等の遺留品が3県で遺族へ返還された。また、佐賀県遺族会から捜索を依頼された56枚の海軍兵士の肖像写真では、これまで24枚について遺族が判明し、返還が完了している。
日本遺族会は、平成25年からOBONソサエティの遺留品返還活動に協力しているが、平成30年度に「戦没者遺留品の返還に伴 う調査」事業が新たに予算化され本会に事業が委託されてから、遺留品の調査依頼が急増し、それに伴い返還数も増加している。
また、OBONソサエティ以外に本会が直接調査依頼を受けた遺留品についても、返還につながるケースが増えてきている。
特に本年度は、佐賀県遺族会から遺族が所有していた兵士の肖像写真56枚を本会が預かり、調査を続けており、24枚が関係遺族へ返還されている。写真は、昭和18年7月に海軍の工作兵修業が終了し、一人ずつ記念写真を撮った若い水兵で、写真の裏には、自分の名前、住所、戦地へ赴く決意、指導を受けた教班長への感謝の言葉などが記されている
兵庫県、長崎県、高知県で、遺留品がそれぞれ遺族に返還
令和2年度の援護事業功労者に対する厚生労働大臣表彰の被表彰者が発表され、多年にわたり戦没者遺族、戦傷病者、引揚者等の援護事業に携わった援護事業功労者、百七人が受賞。このうち日本遺族会関係者百四人が栄ある受賞に輝いた。今年度は現下の新型コロナウイルスの感染状況に鑑み、表彰式は開催しないこととなった。
大臣表彰は、昭和四十年五月に第一回目の援護事業功労者に賞状伝達式が行われ現在に至っているが、今年度は、現下の新型コロナウイルスの感染状況に鑑み表彰式は開催せず、田村憲久厚生労働大臣のあいさつ並びに日本遺族会水落敏栄会長の祝辞が添えられ、表彰状と記念品が被表彰者百七人に届けられた。
表彰された本会関係の四十一支部百四人の方々は次の通り。
11月16日、本会は水落敏栄会長以下副会長、専務理事、常務理事、監事が全国の戦没者遺族を代表して靖国神社に参集し「終戦七十五年全国戦没者慰霊祭」を挙行した。先の大戦で戦没された246万余柱のご英霊に尊崇の誠を捧げ、世界の恒久平和を構築するため、一層精進して行くことを誓った。
先の大戦が終結して75年となる今年、全国の戦没者遺族の代表者に参集願い「終戦七十五年全国戦没者慰霊祭」を執り行うことで準備を進めていた。しかし、新型コロナウイルス感染症の収束の目途が立たないことからやむなく、本会の正副会長らが全国の戦没者遺族を代表して慰霊祭を執り行うこととした。
午前11時、マスクを着用した正副会長他役員らは、靖国神社拝殿の耐震工事により中庭に架設されたテント内に着席し、慰霊祭が開始された。はじめに国歌君が代が流れる中、飛沫防止のため心の中で斉唱。神官による修祓のお祓いを受けたのち、御本殿に昇殿した。献饌の儀の後、斎主が厳かに祝詞を奏上した。
次に水落会長が祭文を奏上、ご英霊に対し「戦争を知らない世代が社会の大半を占める今日、戦争の風化する一方、世界では紛争が絶えず、悲劇が繰り返されている。戦争の悲惨さ、平和の尊さを後世に語り継ぐという遺族会に課せられた社会的責務を果たすため、戦没者の孫、ひ孫等でつくる『青年部』を平成二十九年三月に結成し、活動を重ねている。現在、新型コロナウイルスが猛威を振るい未曽有の危機に直面している。遺族会活動も思うに任せない日々ですが、恒久平和への歩みを止めることのないよう、出来ることを重ね、粘り強く活動してまいります」と決意を述べた。「祭文」はこちら
その後、水落会長が戦没者遺族を代表して玉串を奉奠し、会長に合わせ英霊に冥福を祈り、黙祷を捧げ慰霊祭は無事終了した。
先の大戦の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)で10月24日、硫黄島の戦没者を慰霊し、日米の友好と恒久平和を祈念する、日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式が執り行われた。
式典では、旧日本軍を指揮した栗林忠道中将の孫で新藤義孝元総務相が「全員のご遺骨が故郷にお帰りいただけるよう活動を続けていく」と述べた。米側は「互いに尊重することで命を落とし、傷を負った人々に敬意を表す」と退役軍人代表ノーマン・スミス元海兵隊中将の手紙が読み上げられた。
本会からは、国会議員でつくる硫黄島問題懇話会相談役の水落敏栄本会会長が参列し、献花・献水を行い戦没者に鎮魂の祈りを捧げた。
また、日米合同の顕彰式に引き続き、日本側参列者は日本国政府が建立した天山の硫黄島戦没者の碑に場所を移し、日本側による硫黄島戦没者慰霊追悼顕彰式を執り行い、ご英霊に感謝の誠を捧げご冥福を祈った。
日本戦没者遺骨収集推進協会(JARRWC)主催による硫黄島戦没者遺骨収集派遣団(第2回派遣)が9月2日から10月7日の期間で派遣され本会からは3人が参加協力し、硫黄島の壕等で収集作業に従事し、十九柱を収容した。今回も新型コロナウイルス感染症拡大防止に伴うPCR検査を受け陰性反応者の派遣となった。
派遣団は、23日早朝航空自衛隊機で入間基地入りし、今年1月から8月派遣の継続となる島北部の天山慰霊碑の下部付近の地表面や壕、為八海岸上部の地表面や豪等、重機を使用するなどしてご遺骨や遺留品を掘削しながら作業を進め、天山付近から16柱と為八海岸付近から3柱の計19柱を収容した。
収容された19柱は硫黄島内の厚生労働省事務所棟に仮安置された。
また、今回収容されたご遺骨は今後11月予定(第3回収集)と年明けの1月予定の(第4回収集)最終派遣時に東京・千鳥ヶ淵戦没者墓苑で遺骨引渡し式が行われ戦没者遺族多数参列のもと厚生労働省職員に引渡され同省霊安室に仮安置される。
先の大戦の激戦地として知られる小笠原諸島の硫黄島における米軍上陸時の日本軍の兵力は、小笠原集団長(栗林陸軍中将)をはじめ陸軍約1万3千5百人、海軍約7千7百人が配備していた。日本軍は、艦砲射撃や爆撃を避け、戦力を温存して長期にわたる困難な持久作戦を遂行するため、地形を利用して数百個の地下壕を構築、その延長は約18キロに達した。
昭和20年2月16日、米軍は硫黄島沖に集結した六艦隊による艦砲射撃やB‐29の大編隊による空爆を開始。その熾烈さは山容が改まるほどであった。2月19日、米軍は上陸用船艇約百三十隻で本島東南海岸に上陸を開始。小笠原集団は水際陣地部隊と砲兵火力をもって果敢な反撃を加えたが、優勢な米軍の火力に圧倒され死傷者は続出した。
3月17日決別電打電後、3月25日総攻撃、約1ヵ月間にわたる戦闘の末、日本軍約2万1千9百人が戦死、玉砕した。米軍も約6千8百人が戦死した。