日本戦没者遺骨収集推進協会(JARRWC)主催による硫黄島戦没者遺骨収集派遣団(第2回派遣)が9月2日から10月7日の期間で派遣され本会からは3人が参加協力し、硫黄島の壕等で収集作業に従事し、十九柱を収容した。今回も新型コロナウイルス感染症拡大防止に伴うPCR検査を受け陰性反応者の派遣となった。
派遣団は、23日早朝航空自衛隊機で入間基地入りし、今年1月から8月派遣の継続となる島北部の天山慰霊碑の下部付近の地表面や壕、為八海岸上部の地表面や豪等、重機を使用するなどしてご遺骨や遺留品を掘削しながら作業を進め、天山付近から16柱と為八海岸付近から3柱の計19柱を収容した。
収容された19柱は硫黄島内の厚生労働省事務所棟に仮安置された。
また、今回収容されたご遺骨は今後11月予定(第3回収集)と年明けの1月予定の(第4回収集)最終派遣時に東京・千鳥ヶ淵戦没者墓苑で遺骨引渡し式が行われ戦没者遺族多数参列のもと厚生労働省職員に引渡され同省霊安室に仮安置される。
先の大戦の激戦地として知られる小笠原諸島の硫黄島における米軍上陸時の日本軍の兵力は、小笠原集団長(栗林陸軍中将)をはじめ陸軍約1万3千5百人、海軍約7千7百人が配備していた。日本軍は、艦砲射撃や爆撃を避け、戦力を温存して長期にわたる困難な持久作戦を遂行するため、地形を利用して数百個の地下壕を構築、その延長は約18キロに達した。
昭和20年2月16日、米軍は硫黄島沖に集結した六艦隊による艦砲射撃やB‐29の大編隊による空爆を開始。その熾烈さは山容が改まるほどであった。2月19日、米軍は上陸用船艇約百三十隻で本島東南海岸に上陸を開始。小笠原集団は水際陣地部隊と砲兵火力をもって果敢な反撃を加えたが、優勢な米軍の火力に圧倒され死傷者は続出した。
3月17日決別電打電後、3月25日総攻撃、約1ヵ月間にわたる戦闘の末、日本軍約2万1千9百人が戦死、玉砕した。米軍も約6千8百人が戦死した。